2018/03/10

どんな学生が欲しいの?


 なるべくいい生徒をとりたい、教え甲斐のある学生に来て欲しい、たいていの大学はそう考えています。大学に限らず、学校というものがそもそもそういうもののようです。けれども、その「いい生徒」「教え甲斐のある学生」というのが実際どういうものなのか、そうとはっきりことばにされていないのが普通です。

 そんなことはない、大学案内のパンフレットや説明書、いや昨今だとむしろ、web上のサイトやSNSのコンテンツの方が効果的らしいのですが、いずれそういう場所に必ず載せられているもっともらしい「教育理念」や「指導目標」、「建学の精神」といった書きものがあるじゃないか、と大学は言うでしょう。なんの、そんな文章をまじめに読んでも、どれも同じようなことばの順列組み合わせに過ぎないタテマエだけの作文に終始しているのが通例。具体的にどんな学生に来て欲しいのか、という肝心の部分はいつも漠然としたまま、実際にはピンとこないまま、なんかまあそういうものだから、程度でそのままスルー、というのが大方でしょう。

 中にいる教職員だとて実は同じようなもの、教員は、自分の教える内容をすんなり理解し、言われた通りに自主的に学び、良い成績を取ってできるだけ世間的に聞こえの良い就職先に就職してゆくような学生を、職員も職員で、事務手続きなどで面倒をかけず、学費もきちんと払える家庭環境に育った学生を、いずれホンネでは望ましいと思ってはいますが、けれども、それをそのまま口にしたり外に向かって伝えることはまずないし、やろうとすら思わない。当人たちの裡でも、それは概ね漠然としたままなんですね。かくて、小中高とそれまでの「学校」の過程で悪目立ちすることのなかった「いい子」というやつが、大学でもそのまま、意識されざる望ましい学生像として連綿と伝承されているかのようです。

 応募してくる高校生だとて、それまでの「学校」生活でそのへんのことは経験的にわかってはいる。なにせ「無難」が生きてゆく上の指標になっているらしいいまどきの若い衆のこと、大学だからと言ってそんなにこれまでと違うはずもないと思っている。けれども、彼ら彼女らもまた、そのことをはっきりことばにして自ら認識することのないまま、これまた漠然と、なんかまあそういうものだから、という「いい子」というものさしに沿ってゆく。彼ら彼女らの「無難」は、大学の教職員の側の「無難」と互いに呼応しながら、次は、就活における「望ましい人材」像にも、もちろんめでたく伝承されてゆくばかりです。