2012/02/10

記述式解答の「遠さ」


 一般入試の二次も無事終わりました。「受験」というもの言いにまつわっていたどこか窮屈で鬱陶しいイメージは、かつてほどじゃなくなっていると思うのですが、でもそれはすでにそんな時期をくぐり抜けたオトナの感覚に過ぎないのも事実なわけで、現に、眼前の若い衆たちは毎年同じように「受験」という試練の前では、同じようにこわばった堅苦しい顔つきで、冬の妙に暖められた教室に並びます。

 カリカリと鉛筆が答案用紙に当たり、走る音を聞きながら、試験監督の通例、机間巡視の合間に答案用紙の埋まり具合なども眺めてみます。たまたま「国語」の時間だったのですが、何か文字で文章をこさえて記すいわゆる記述式解答の問題はほぼみんな後回し、記号で選択肢を選んで答えるスタイルのものからとりかかる、というのは、昔も今も受験技術のひとつ、ああ、変わらないんだな、と思って見ていたら、どうやらそれだけではないらしい。時間の半ばを過ぎても、最後にさしかかってもその部分は空白のまま。とりかかる様子もなく放置されている例が結構な比率で。

 つまり、記述問題は初めから投げているんですね。文章を書いたりまとめたりすることは、たとえ数十字から百字程度でも「めんどくさい」。あるいは「わからない」。記号や数字で与えられた選択肢から「選ぶ」ことをするだけで、文字でことばで何かを伝えようとすることは最初から思慮の外、と。

 作問担当で、高校の現場経験の長い同僚のセンセイに尋ねてみると、「ああ、そんなもんですよ」とにべもない。勉強ができるできない、に関わらず、文字を書くこと自体それくらい「遠い」作業になっている由。記述式の解答を要求する問題を出すことは、だからそういう意味でも気を遣うものなんだそうです。

 でも、大学の定期試験の多くは記述、論述式の解答を要求するものになっている。それは今でもそんなに変わらないと思うのですが、もしかしたら、大学によって学部学科によって科目によっては、選択肢を与えて記号数字を「選ぶ」だけで定期試験をしている事例も、こちらが知らないだけですでに増えてきているのかも知れません。

2012/02/07

大学の「売り方」


 センター試験利用入試の受付も始まっています。こちらも現状、昨年度よりは増加中。もちろん、一般入試以上に併願している受験生が多いわけで、仮に合格しても実際に入学してくれるかどうかはわからない比率が高いわけですが、それでも選択肢としてこれまで以上にうちの大学を入れてもらえるようになっているのは、まずうれしいことです。

 来年度募集に向けてのパンフレットその他、宣材の準備もすでに進んでいます。いまどきのこと、大学のことを知るやり方は、パンフレットを取り寄せて、といった昔ながらの形より、ホームページなどwebを介して、という高校生が毎年増えています。ですから、どこの大学もホームページその他webを介した「発信」には力を入れていますし、高校生受験生向けの特別のページを設定しているところも増えてきました。

 もちろん、こういう仕掛けをしてゆくにはおカネがかかるわけで、大きな大学で資金も潤沢なところほど充実してくる。見ただけで、ああ、おカネかけてるなあ、と一目瞭然なサイトなど眺めると、正直、かなわないなあ、と思ったり。

 でも、普通の商品と違って、大学の良さはそういう「広報」「広告」の派手さや洗練具合だけでうまく伝わるものでもないらしい。時にはむしろ逆で、なんだか大学っぽくなくてヘン、といった印象を持たれる場合もあるようです。高校生もバカじゃない。自分がその大学に行くとして、果たしてどのようにそこになじんでゆけるのか、何を本当に自分の役に立つよう身につけてゆけるのか、「広報」「広告」のちょっとした断片や情報からそのシミュレーションをさまざまにやってのけている、その程度に「メディアリテラシー」は上がってきているわけで、プロに任せるべきところは任せながら、それでも現場のわれわれが手間ひまかけて形にしなければならないところはきちんと担いながら、役割分担をうまくやって、大学の「売り方」を良い形をめざさなければ、と思っています。

 

2012/02/03

「受験」の季節


 2日間にわたる一般入試(一次)が終わりました。採点と当該学部学科の担当者による合否判定の後、最後に全学の判定会議というところで正式に合否が決定されます。まあ、どこの大学も手続き的には似たようなものでしょう。来週、二次の一般入試が行われます。

 前にもちょっと触れたように、うちの大学は今年から2科目入試に変えたので、選択科目によって得点のバラつきなども出てきます。それらも不公平のないよう細心の注意を払って場合によっては対応しながら、ひとりひとりの受験生の調査書その他とつきあわせながら、合格か不合格か、の判定をくだしてゆきます。

 ある大学ある学部をめざして一生懸命に勉強をし、場合によっては浪人しても再度チャレンジする、といったいわゆる「大学受験生」のイメージはもう、ほとんど現実に即していなくなりました。もちろん、全国区の難関大学をめざす高校生その他は今でもいますが、少なくとも道内の高校生でこれから先もできれば道内で仕事をして暮らして行ければ、といった普通の子たちにとっては、「受験」は少し前まで抱かれていたようなイメージのものではなくなっています。

 このご時世、複数の大学を併願受験する、なんてこともしにくくなってるでしょうし、事前に自分で調べパンフレットを取り寄せオープンキャンパスや説明会にも足を運び、ここなら自分が少しは変われるかも、と思って選んでくれたんでしょうから、できれば全員入学させてあげたいのですが、そうもゆかない。いくらまだ鞍置きもしてない名前のない馬、とは言え、馬として最低限走る気を見せてくれるかどうか、可能性の片鱗くらいはうかがえるかどうか、などはこちらとて、やはり見ておきたいところですから。

 ともあれ、この季節は教員にとっても結構タイトな日々が続きます。人によっては「講義やってる方がラクだよね」というセンセイも。それでも、新しい学生がキャンパスにやってくるというのは毎年、新たな希望になるわけで、その意味でももう少し続くこの「受験」の季節を乗り越えなければ、と思っています。
 

2012/02/02

名前のない馬


 専門が競馬、というか、馬と馬で仕事をしている人たちについて勉強しているので、うちの大学に来る若い衆たちはまだロクに鞍置きもされてない馬だよ、とよく言います。それに比べて、東京や大阪の大学をめざす、国公立や私立の有名なところを狙って勉強してきたような子たちは、早い時期から馴致も調教もされて、3歳の夏からデビューするような馬だよ、と。

 そりゃ今の時点で比べたら話にならない。向こうは早くから競馬を使うように仕上げられてきたわけで、レースのやり方も一応知ってるし能力もそれなりに磨かれている。こっちは、まだ牧場でゴロゴロして何も手がかけられていなかったりするわけで、現時点じゃそりゃ勝負になりません。

 でも、今仕上がって競馬している馬は、若いうちからしごかれた分、もう消耗しきってるかも知れない。有名な大学に何とかもぐりこめたとしても、そこから先はもういっぱいいっぱいかも知れない。こっちはまだ何も手当てされてないのだから、やりようによっては2年後、3年後には互角に勝負できるような馬も、いるかも知れない。

 いずれ社会に出て働いて、自分で稼いで生きてゆくことにおいては、どの馬も同じこと。今はまだ全然別の場所にいるのだとしても、4年後に同じレースの同じゲートに入ることができるようになれば、それで帳尻は十分あうはず。何より、そこからが本当の勝負です。

 だから、高校まで何もやってこなかったなあ、と思うのはいいことだし、なんかもうそういう「勝ち組」(いやなもの言いです)にはなれないんだなあ、と落ち込むのも、まあ、悪いことでもない。でも、まだ何も始まっていないんだ、ということは忘れないで下さい。ましてや、生きものとして、一番変わってゆけるチカラを宿している十代から二十歳過ぎのこの時期です。これから鞍を置いて、調教をしてゆけば、「化ける」ことだって十分にあり得る。そのことをきちんと信じてみることが、いまの高校生にとって、まず何よりも大事なことだと思います。

「自立」ということ


 よく、「自立」と言われます。うちの大学でも建学の精神としてこの「自立」があげられている。英語だと、independence=依存しない、寄りかからない、こと。自立、独立、独り立ち。でも、じゃあ具体的にどういう状態? と尋ねられると、案外すっきり答えられない。

 大学での場合、4年間かけて一度ちゃんと「ひとり」になること、がまず必要です。孤立したりひとりぼっち、という意味じゃない。ちゃんときちんと「ひとり」になること。まわりの友だちや仲間と自分とは別のニンゲンである、そのことを自分で思い知る、ということです。

 たいていの新入生は、高校生までのまま大学にやってきます。特に昨今は浪人までして大学に来るような人は少なくなっている。高校生までの集まり方、群れ方がそのまま持ち越されてくるのが普通です。男の子と女の子でも違ってくるのですが、それはひとまず措いておくとして、ひとつ言えることは、そのような高校生以来の集まり方、群れ方から一度離れて「ひとり」になること、が「自立」の兆しだということです。

 人によって違いますが、4年の間のどこかでこれをやっておかないとまずい。それまでいつも一緒にいる、群れてじゃれあっていた仲間から、何となく離れてひとりで行動するようになっているのを見ると、ああ、いいぞいいぞ、とこちらはひそかに喜んでいます。たいていちょっと不機嫌そうな、めんどくさい内面の気配が表情や身振りにも浮かび出てくる。まあ、以前ならば高校生くらいの時期に乗り越えておくべき過程だったんでしょうが、いまどきはそれが大学にまで持ち越されるのが普通になっているようです。

 そんな「ひとり」になる過程をくぐった後に、もう一度仲間と出会い直す。互いに「ひとり」であることを認識した上で、改めて関係を発見してゆく。4年間という時間のありがたさは、そんな手続きも許容してくれる懐の深さ、でもあったりします。

2012/02/01

「大学」という値打ち


 高校まででそれなりにつくられてきた「自分」を一度ほぐして、大げさに言えばこわしてしまう。2年間じゃこれはできませんし、資格だの何だのといった出口へも届かない。でも、4年間あればこれができるし、また敢えてやらないといまどき「大学」なんて意味がない。特に文科系、さらに人文学系の学部の場合はほぼそれにしか存在意義はないんだと思います。

 だから、新入生の1年生の間か、遅くても2年生の夏くらいまでに一度、それまでの「自分」を形成してきたいろんな「当たり前」に気づいてもらい、それをできるだけバラバラにほぐして棚にあげてしまうことをしなければならない。その上で、残りの何年かでそのバラバラになったものをもう一度見つめ直し、使えるものはもう一度使い、手入れするべきものは手入れをし、もっと他の何かに取り替えた方がいいものや、新たにつけ加えるべきものなども全部一度手もとに並べてみて、それらでもう一度新たな、それまでと違う別の「自分」を組み上げてゆく。

 もちろん、ひとりじゃできないから、仲間と友だちと、先輩後輩と、「大学」という「場」を最大限に活用して、やる。そのための時間と費用とをかけてもらえるだけの値打ちがある、ということを、これからの大学は自ら証明しようとしてみせなければならないのだと思っています。

2年間と4年間


 うちの大学には短大も一緒にあるので、キャンパス(と呼べるほど広くはないですが……)を行き交う学生は女子学生の比率が高い。また、科目によっては短大生を教えることもあるので、短大と四大の「違い」については敏感になります。

 まず言えるのは、2年と4年、という修業年限の違いだけではないこと。2×2=4年、では収まり切れない「違い」が良くも悪くも存在するということです。

 資格が出口になっている学科や専攻で、しかもその資格が国家資格だったりしたらなおのこと、縛りはさまざまにカリキュラムからシラバスの内容にまで影響し、場合によっては実習などもタイトにやらねばならず、それらを2年間でこなしてゆくために必然的に日常は「やらねばならないこと」でびっしり埋まることになります。考えずにとにかく「こなしてゆく」ことが学生たちにも課せられるし、まただからこそ成果もあがるという面があります。

 専門学校でも基本的には同じでしょう。文科省からの縛りが大学や短大よりゆるい分、ビジネスモデルとしては「資格」その他を確実に保証しないと成り立たない面があるでしょうから、「やらねばならないこと」のタイトさは同様に学生たちに課せられることになります。

 それに対して大学は4年間。資格を出口にしていても、やはり時間的に余裕がある。カリキュラムにしても、昔の一般教養系、今だと共通科目とか初年次必修といった名前になったりしてますが、自分の専門や専攻、取りたい資格に直接関わらない勉強も設定されていて単位を取らねばならない。一直線に出口まで、というわけではないので、その分寄り道や道草もできるようになっています、良くも悪くも。


大学と専門学校、の「違い」


 就職のための大学、資格取得のための大学、というのも確かに重要です。こういう時代、こういう状況だからこそなおのこと。親御さんや高校のセンセイ方のみならず、他でもない当の高校生自身がそういうことを先回りして気にするようになっています。

 それだけを目的とするなら、おそらく今の時代、四年制大学よりも専門学校の方が合理的かも知れません。何よりかかる費用が半分ですむ。「出口」の資格が同じなら、投下する費用の少ない方が費用対効果に優れている――そう考えるのはある意味当然でしょう。

 大学に行けば「いい会社」に行き「ましな仕事」に就ける、というのが、これまでの「大学」イメージの中核にありました。けれども、その図式は現実に崩壊しつつあります。実は以前から崩壊しつつあったのですが、大学の側も世の中の側もそのことを敢えて見ないようにしてきたところがあります。「就職率○○%!」といった宣伝文句はそのような構造の上に成り立っていました。

 しかし、最終的にそれもあやしくなってきました。就職や資格を前面に押し出さざるを得なくなった、それゆえ専門学校と正面から競争せざるを得なくなった大学。漠然とした就職率や内定率でなく、公務員や教員など具体的な資格免許の合格率を看板に掲げ始めるなども、大学ならではの生き残りを賭けた「資格」商法と言えるでしょう。

 それはそれで時代の流れ、致し方ない面はあります。ただ、それはそれとして、同時に静かに省みておかねばならないだろうと思うのは、専門学校の2年間、と、大学の4年間、の「違い」についてです。

「大学」という自己規定の再設定


 地域でのいわゆる上位の大学でもなく、だから勉強の好きな、あるいは勉強を介して何か上をめざそう、といった「意識の高い」w高校生が第1志望で入ってくることもなく、でも、普通に地元に生まれ育って普通にできれば地元で仕事をして暮らしてゆければ、といった程度の「社会性」を漠然とでも持っているような、まさに地域の「中堅」になってゆくべき若い衆のための「大学」、って自己規定を改めて設定しつつあります。

 それは、現場でそんな若い衆に日々対峙するこちら側教職員に対しても、同時に既存の漠然とした「大学」イメージを積極的に相対化してゆくことを求めます。そして同じことを、おそらく保護者である親御さんや高校のセンセイたちにも同等に。

倒産してゆく会社の「内情」

NECトーキン250人削減 再編へ希望退職者募集
http://www.kahoku.co.jp/news/2012/01/20120128t72009.htm

今まさに倒産してゆく会社の内情がすげえ
http://hamusoku.com/archives/6655196.html

 「金曜日に発表があったばっかりなんだよリストラ 。説明会にでた社員、全員顔色が真っ青っていうか土気色になってたw 俺も説明会終わった後、急に景色がぐにゃああってなった。カイジのワンシーンみたいにwwあれってマジで起こるんだなw」 


 今のニッポンでは日々あちこちで起こっていることのひとつ、なんだと思いますが、当事者の中に何か書き込みをする人がいると、たとえ恣意的なものであっても、あっという間に「内情」=事実、として曝される昨今の情報環境。「会社」が「大学」になっても何も不思議はないわけで。

2012/01/31

iPadを導入する大学

授業にiPadを導入した大谷大学、その中間報告を公表
http://current.ndl.go.jp/node/20024

 へえ、すげえなあ、でもタイヘンそうだなあ、というのが正直な印象。

 だいぶ前、入学者全員にノートパソコンを提供、といったニュースが大学関連の話題になっていた時期がありました。慶応のSFCとか、できた当初にそんなことを盛んに報道されていたような。時は変わり、いまはiPadのようですが、さて、ほんとにその成果ってのはどれだけあるのかどうか。

 パソコンの端末がずらりと並んだ教室で、eラーニングの試み、はうちの大学でもやられています。英語教育などが率先してそういう試みを導入、試行錯誤しながらも先に進んではいるようですが、でも、とにかくこれさえ導入すれば全てがうまくゆく、といったものでないのは言うまでもなく。

 iPadなど以前に、まずパソコン自体とどうつきあってゆくのか。進学率50%超のいまどきの大学にうっかり入ってきた若い衆にとっては、そのあたりのことからまず考えてみる意識を身につけてもらうことが何より先なんだと思ってます。

明日から一般入試


 明日から2日間、一般入試の第一次。

 今年から試験科目を2教科にしたので、問題作成やら何やら仕事は増えたのだけれども、懸案の受験生の数自体は昨年度よりも増加。これまでは1教科のみで受験できるスタイルで、その分、AO入試主体で学生募集をしてきたのを方向転換したわけで、少なくとも大学を「受験」しよう、と思って2科目くらいは勉強している高校生に対して、選択肢に入れてもらうようになっていることは、ひとまず喜ばしい。