2018/03/22

「わからない」は、日本語の不自由から?

 日本語が「できない」という学生若い衆、実は少なくありません。何も日常会話ができないというのではない (いや、それも不自由なのも確かにいますが、それはそれとして)、書かれた日本語に対する理解がこちらの想定を越えてできていない、ということで、つまりそれは「読む」ことが、すでにこちらが勝手に思っているような営みではなくなっているらしい、ということのようです。

子どもの「わからない」は実は日本語が「読めない」だったりする、かも問題
 子供が何か設問を解いて答えを言い、違うよというと下手な鉄砲スタイルでとにかく拾った言葉全部投げてくるみたいな答え方で正解を引き当てるまでやるタイプの子が本当にいるんですけど、「いや待って、考えて答えて」って言うと本気で「は?」ってなってるのね。
  「考えてって何?問題んとこに書いてあるやつの中にマルの答えあるんでしょ」みたいな感じね。すぐマルの答え見つけられるやつズルいみたいな感じね(すごく運動神経いいみたいなイメージで捉えてるっぽい)。
  こうなるとテストとかもはやくじ引き感覚になってて、テストのできるできないもくじ運のいい悪いになってて、くじって努力とかそんなないでしょう。自分くじ運悪いんだし仕方ねーわって感じになってて根本的に勉強して考え方を身に付ければギャンブルしないで答え書けるんだってことが肌感になってない。
  テストでマルがいっぱいつく奴のことは、くじがいっつも当たるラッキーで先生に誉められるズルい奴ってことになるし、もう完全に学校の勉強というものが何をしているのかわかっていない。 
  あらかじめどこかに「正解」が落ちていたり隠されていたりして、それをどれだけ早く、他人よりも先に気づいて拾うことができるか、それを「学校」という空間でやるゲームが「勉強」――ざっくりそういう理解が結構共有されているらしい。 「勉強」ということ、それも「学校」での勉強ということに対しての理解の仕方が、最も機械的で短絡的な意味での○×式のゲームのようなもののままで、どこかに必ず「正解」が隠れてるからそれをとっとと早く見つけた方が「勝ち」という世界観。いや、そりゃ小学生の低学年あたりならそういう導入、エントリー向け手管もありでしょうが、 中学から高校と進んでうっかり大学にまで流し込まれてきていながら、ほぼそういう理解のまんま、という事例は確かに現前しています。

  子どもならまだしも、なまじ大きくなっている分、タチが悪いのは、そういう理解のまんまでいることをうまく誤魔化し隠せるようになっていること。当人たちにそういう意識はなくても、中学・高校と「学校」空間で生き延びてくる過程で、それこそ「無難」に「ふりをする」ことはそれなりに身につけてきているし、またそれをいちいち詰めてゆくような手間も、いまどきの「学校」空間はかけていられなくなっている。だから、そういう理解を抱えて「ほったらかされたまま」、めでたく進学率50%超の大学の教室に坐っている次第。

  「方法」ということを教えてこなかった、そしてその「方法」が何のためのものか、も含めてことばにして、こうこうこういう目的のために、こういう技術をこうやって身につける必要があるんだ、ということを拙いながらもそれなりに納得させた上で、やる。これってスポーツなどで近年言われる「コーチング」のあり方などとも通底してる話だと思うんですが、「学校」空間での「勉強」もまた、そういう身体技法である以上、スポーツのような「コーチング」の視点というのが必要なのだと、今さらながらに痛感しています。「わかる」が「できる」と重なってゆくために、その「できる」に至るためにはやはり反復しかない部分もあり、それをある程度積極的にするように仕向けてゆく、環境を整えてゆく、そんな発想は今や大学だからこそ、切実に必要になっています。

2018/03/20

講義の数が減っている?


学生になったつもりで、改めてカリキュラムを眺めてみます。あ、これ取ってみたい、聴いてみたい、という授業や講義が、さて、どれくらいあるものか。

何より、以前に比べて講義科目の数が激減しています。おそらくこれは、多くの大学でここ10年内外に起こってきたことでしょう。理由は、とりあえず経費削減。非常勤講師も含めて、大学の開講科目数は人件費に依存しています。昨今の少子化などで経営状況が芳しくなくなってきた時に、経営側は当然、経費を削ることを考える。人件費が最もラクに、少なくとも民間企業でのリストラや解雇首切りなどに比べれば手間をかけずに削れる、それが開講科目の削減だったようで、非常勤や特任の教員に頼っている部分の大きい科目から減らしてゆくことが当然のようにやられてきました。受講者数の少ない科目は開講しない、などというローカルルールが定められて、科目登録が終わった段階でこの科目は開講しません、といった事態も起こってきますが、だからと言って、いまどきの学生若い衆は強くクレームをつけたりはしない。仕方ないよね、で粛々とまた別の科目を登録し直したりして、特に問題になったりはしないのが通例。

単に科目が減っただけでなく、その目指すところが「就職」に特化した組み立てになっている、そんな印象のカリキュラムになっているところは、同業他社をざっと眺めてみても本当に多い。というか、学部学科コースなどによって色合いは違うように見せてはいても、その意図するところというか目指す先はきれいに同じところに向かっている、そんな感じです。そしてこれは、大手の有名どころやいわゆる入学偏差値的に高い大学かそうじゃないかに関わらず、大都市圏であれ地方であれ、どこも基本的に変わらない傾向のように見えます。

 大学へ入って最初の1年2年が「一般教養」課程で、3年になって初めて「専門科目」が取れるようになる、というのが以前の大学の、ということは今の世間の大方がイメージしているような大学のあたりまえ、でした。これが「大学設置基準の大綱化」という、ぶっちゃけ「大学の自由化」政策によって今から20年ほど前、なしくずしに崩されてきて、昨今だとこういう2階建てのカリキュラム構造は、ほぼ姿を消したと言っていいでしょう。3年4年になってようやく大学生らしい専門科目と演習とでがっちり勉強する、というあり方はすでに遠い昔のこと。いや、それどころか、昨今は1年から「初年次教育」という名の、高校までのおさらいと足りない部分の補習みたいな科目が設定され、同時に「キャリア教育」という就職めがけた洗脳課程も待ち受ける。3年からは実際に就活を視野に入れた本番が始まり、4年はもうほぼ就活でつぶされる、というのが昨今の大学と大学生の4年間の概ねルーティンになっています。

 「好きな勉強」「自分の興味や関心に従った学び」といった美辞麗句は、未だどこの大学の宣伝パンフや公式サイトなどに踊っていますが、けれどもそれらでさえも、すでに片隅に追いやられ始めているフシも見え始めている。「実学」という名で、具体的な就職につながるような教育をしなければならない、という流れが近年、表面化してきて、またその流れを世の中自体が何となく承認しているような気配の中、大学とは就職のための勉強をするところ、できればそういう「役に立つ」免許や資格のとれる学校、といった理解の方向に、大きく変わってゆきつつあるようです。

2018/03/19

「おはなし」としてのマスコミ報道

 政治と政局をめぐるこのところの一連の騒動、いわゆるマスコミが、高度成長期このかた半世紀以上にわたって流し続けてきた「反権力」「反自民≒与党」の「おはなし」の定型の刷り込みが、ここまで「世論」を下支えしてきていることに、今更ながら驚いています。いや、そういう仕組み自体はもちろんこれまでもわかっていたつもりではあるんですが、このところ驚いているのは「世論」に対してではなくて、そういう「おはなし」の定型に従ったままの報道なり解説なりを、ここまで本当に何も自省も立ち止まりもせずにやっているマスコミの側が丸見えになってしまっている、そのことです。

 昔からそういう手癖、習い性で仕事をしてきてたんだよマスコミなんて、と言う人もいます。そうかも知れない。ただ、仮にそうだとしても、その間ざっと半世紀ばかり、時代も変われば社会のあり方もあり得ないほど大きく変わってきている、マスコミの中の人がたももちろん世代交替してるし、何より「世論」の主体であるこちら側にしたところで親から子、孫の世代まで含み込んでの幅があるわけで、そんな転変があるにも関わらず、同じ「おはなし」が未だに大枠変わらないまま「伝承」されてきているらしいことにびっくりします。

 民話や昔話、といったジャンルの表現と同じような、「そういうもの」としてただ繰り返され受け継がれてきている「おはなし」としてのマスコミ報道の、「反権力」「反自民≒与党」という定型のこの変わらなさ、しぶとさは、それ自体われわれのこの社会の〈いま・ここ〉に活きている民話や昔話のような、そうと意識しない/させない「そういうもの」になっているらしい。

 ならば、そういう現在のありさまについて、日本語環境の学術研究、特に人文社会系と呼ばれる領域の専門家たちは、何も発言しないでいいのでしょうか。そういう〈いま・ここ〉の現在についてだけでなく、そうなるに至っているこの半世紀以上の間には、すでにもう「歴史」が介在してきてたりもするはずなんですが、いまどきの学問というのはそういう眼前に起こっているらしいできごとに対する、ごく素朴な感受性すら失ってしまっているんでしょうか。

 これって、●●学とか何とか、それぞれの専門領域がどうこうといった問題ではないらしい。四半世紀ほど前に始まった大学設置基準の大綱化と大学院重点化政策このかた、日本語環境での学術研究の作法自体がもう、そういう〈いま・ここ〉の問いをすくいあげるためのマザーボード自体をすでにもう取り外し、廃棄してきているような印象すらあります。

 それは端的に言って「ことば」の問題であり、そして、そういう「ことば」を着実に疎外してきているらしい昨今の「論文」だの「業績」だの「エビデンス」だの、いずれそういう自ら望んで不自由になってゆく方向に向かって、横並びで、本気で、しかも善意ごかしに殺到しているように見える、概ねアラフィフ界隈から下の世代の「優秀」の問題が根深くからんでいます。

 「反権力」という「おはなし」の拠って来たるゆえんと、それがわれわれのココロにどのような刷り込みや「そういうもの」を宿してきているのか、それらをそれぞれの身の裡から立ち止まって自省し、小さなことばにしてゆくことからしか、昨今のいわゆるマスコミ報道の定型の自家中毒垂れ流し状態に対する抗体は作れないままだと思います。