子どもの「わからない」は実は日本語が「読めない」だったりする、かも問題
子供が何か設問を解いて答えを言い、違うよというと下手な鉄砲スタイルでとにかく拾った言葉全部投げてくるみたいな答え方で正解を引き当てるまでやるタイプの子が本当にいるんですけど、「いや待って、考えて答えて」って言うと本気で「は?」ってなってるのね。
「考えてって何?問題んとこに書いてあるやつの中にマルの答えあるんでしょ」みたいな感じね。すぐマルの答え見つけられるやつズルいみたいな感じね(すごく運動神経いいみたいなイメージで捉えてるっぽい)。
こうなるとテストとかもはやくじ引き感覚になってて、テストのできるできないもくじ運のいい悪いになってて、くじって努力とかそんなないでしょう。自分くじ運悪いんだし仕方ねーわって感じになってて根本的に勉強して考え方を身に付ければギャンブルしないで答え書けるんだってことが肌感になってない。
テストでマルがいっぱいつく奴のことは、くじがいっつも当たるラッキーで先生に誉められるズルい奴ってことになるし、もう完全に学校の勉強というものが何をしているのかわかっていない。あらかじめどこかに「正解」が落ちていたり隠されていたりして、それをどれだけ早く、他人よりも先に気づいて拾うことができるか、それを「学校」という空間でやるゲームが「勉強」――ざっくりそういう理解が結構共有されているらしい。 「勉強」ということ、それも「学校」での勉強ということに対しての理解の仕方が、最も機械的で短絡的な意味での○×式のゲームのようなもののままで、どこかに必ず「正解」が隠れてるからそれをとっとと早く見つけた方が「勝ち」という世界観。いや、そりゃ小学生の低学年あたりならそういう導入、エントリー向け手管もありでしょうが、 中学から高校と進んでうっかり大学にまで流し込まれてきていながら、ほぼそういう理解のまんま、という事例は確かに現前しています。
子どもならまだしも、なまじ大きくなっている分、タチが悪いのは、そういう理解のまんまでいることをうまく誤魔化し隠せるようになっていること。当人たちにそういう意識はなくても、中学・高校と「学校」空間で生き延びてくる過程で、それこそ「無難」に「ふりをする」ことはそれなりに身につけてきているし、またそれをいちいち詰めてゆくような手間も、いまどきの「学校」空間はかけていられなくなっている。だから、そういう理解を抱えて「ほったらかされたまま」、めでたく進学率50%超の大学の教室に坐っている次第。
「方法」ということを教えてこなかった、そしてその「方法」が何のためのものか、も含めてことばにして、こうこうこういう目的のために、こういう技術をこうやって身につける必要があるんだ、ということを拙いながらもそれなりに納得させた上で、やる。これってスポーツなどで近年言われる「コーチング」のあり方などとも通底してる話だと思うんですが、「学校」空間での「勉強」もまた、そういう身体技法である以上、スポーツのような「コーチング」の視点というのが必要なのだと、今さらながらに痛感しています。「わかる」が「できる」と重なってゆくために、その「できる」に至るためにはやはり反復しかない部分もあり、それをある程度積極的にするように仕向けてゆく、環境を整えてゆく、そんな発想は今や大学だからこそ、切実に必要になっています。
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