2018/03/19

「おはなし」としてのマスコミ報道

 政治と政局をめぐるこのところの一連の騒動、いわゆるマスコミが、高度成長期このかた半世紀以上にわたって流し続けてきた「反権力」「反自民≒与党」の「おはなし」の定型の刷り込みが、ここまで「世論」を下支えしてきていることに、今更ながら驚いています。いや、そういう仕組み自体はもちろんこれまでもわかっていたつもりではあるんですが、このところ驚いているのは「世論」に対してではなくて、そういう「おはなし」の定型に従ったままの報道なり解説なりを、ここまで本当に何も自省も立ち止まりもせずにやっているマスコミの側が丸見えになってしまっている、そのことです。

 昔からそういう手癖、習い性で仕事をしてきてたんだよマスコミなんて、と言う人もいます。そうかも知れない。ただ、仮にそうだとしても、その間ざっと半世紀ばかり、時代も変われば社会のあり方もあり得ないほど大きく変わってきている、マスコミの中の人がたももちろん世代交替してるし、何より「世論」の主体であるこちら側にしたところで親から子、孫の世代まで含み込んでの幅があるわけで、そんな転変があるにも関わらず、同じ「おはなし」が未だに大枠変わらないまま「伝承」されてきているらしいことにびっくりします。

 民話や昔話、といったジャンルの表現と同じような、「そういうもの」としてただ繰り返され受け継がれてきている「おはなし」としてのマスコミ報道の、「反権力」「反自民≒与党」という定型のこの変わらなさ、しぶとさは、それ自体われわれのこの社会の〈いま・ここ〉に活きている民話や昔話のような、そうと意識しない/させない「そういうもの」になっているらしい。

 ならば、そういう現在のありさまについて、日本語環境の学術研究、特に人文社会系と呼ばれる領域の専門家たちは、何も発言しないでいいのでしょうか。そういう〈いま・ここ〉の現在についてだけでなく、そうなるに至っているこの半世紀以上の間には、すでにもう「歴史」が介在してきてたりもするはずなんですが、いまどきの学問というのはそういう眼前に起こっているらしいできごとに対する、ごく素朴な感受性すら失ってしまっているんでしょうか。

 これって、●●学とか何とか、それぞれの専門領域がどうこうといった問題ではないらしい。四半世紀ほど前に始まった大学設置基準の大綱化と大学院重点化政策このかた、日本語環境での学術研究の作法自体がもう、そういう〈いま・ここ〉の問いをすくいあげるためのマザーボード自体をすでにもう取り外し、廃棄してきているような印象すらあります。

 それは端的に言って「ことば」の問題であり、そして、そういう「ことば」を着実に疎外してきているらしい昨今の「論文」だの「業績」だの「エビデンス」だの、いずれそういう自ら望んで不自由になってゆく方向に向かって、横並びで、本気で、しかも善意ごかしに殺到しているように見える、概ねアラフィフ界隈から下の世代の「優秀」の問題が根深くからんでいます。

 「反権力」という「おはなし」の拠って来たるゆえんと、それがわれわれのココロにどのような刷り込みや「そういうもの」を宿してきているのか、それらをそれぞれの身の裡から立ち止まって自省し、小さなことばにしてゆくことからしか、昨今のいわゆるマスコミ報道の定型の自家中毒垂れ流し状態に対する抗体は作れないままだと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿