2018/03/15

「育てる」作法の、いま

 若い人を育てないと――どこの業界でもそうでしょうが、いくらかまともな、もののわかった人がたほど善意からそういうことを言い、また口だけでもなく、実際にこれと眼をつけた若い衆を抜擢してみたり、世話してみたり、といったこともやったりする。なるほど、心意気はよしとしますし、何よりほんとに必要なことではあるだろう。ただ、そういう心意気がうまく結果に結びつくのかどうか、むしろ逆にその育てられる側にしたところでかえってよからぬことにしかならない、そんな少し前までと違う難儀が関わってきているようにも見えます。

 育てられたいなんて思ってないから――そんな口吻の「若い人」も普通にいます。青年客気の言動というわけでもなく、敢えてそう言ってみせる反抗ぶりでもなく、ほんとに心からそう思っているらしい。一方、そんな若い衆世代に対して、「自分ひとりで大きくなったような顔しやがって」という、昔ながらの親や年寄りのもの言いも以前はありましたが、これまた、昨今の親なり年寄りなりの側は、そんな悪態めいた説諭説教の類もしなくなっているようです。つまり、若い衆の側も、年上のおとなたちの側も、共に互いに「関係ない」、同じ場所同じ空間を共にして生きていながら、本当に関係を持つことを互いに避けあって、それをあたりまえの常態と思うようになっているようなのです。ありていに言って「腰が引けている」状態。互いにそんな物腰では「育てる」も「育てられる」も、うまく成り立つ道理はない。かたや単なる甘やかし、態のいい放置ほったらかしだったりするし、かたやそれに甘えて自らしゃんとしてゆく意志も宿らぬまま、ただ眼前の状況を「こなしてゆく」ことでいっぱいいっぱい、という光景は、気がつけばそこここに見られます。

 責任をもって負荷をかけてゆく、そしてその結果もまたフィードバックしながら、常に変化の相においてより良くなる過程を見つめてゆく――おそらくこれは、何も仕事の場だけでなく、広い意味での人づきあいの中で設定されてきた習い性、それこそ「民俗」だの「伝統」だのと呼ばれてきたような領分も含めての問題ではあるのでしょう。それがうまく機能しなくなってきているらしいことと、その気配を察知しながら、ならばどう機能するように手直ししてゆくのか、腰上げることも億劫になっている事態の複合汚染。 おとなであり、親であり、上司先輩リーダー……何でもいいですが、そういう立場に必ず伴ってきていたはずの、負荷をかけることとその効果を測定する技術みたいなもの自体が、もう受け伝えられなくなっているらしい。

 世に言われる「ブラック」企業なり労働環境、あるいはスポーツなどの場で未だ問題化する「しごき」「いじめ」「かわいがり」系の現象なども含めて、どこか大きな根のところで通底しているような気はしています。

 

 

2018/03/14

野良博士、地に満てり



  大学に教員として就職したいのにとてもできない、という状況があたりまえになって、うかうかともう20年近くたってしまったようです。

   いわゆる大学院の重点化が文科省の政策として導入されて、「入院」する人がたが一気に増えた。特に、人文社会系の分野での増加がはなはだしかったというのは、実感としてだけでなく、数字の上にも現れているようです。まして、少子化の流れで大学という商売自体が茨の道になりつつあるわけで、パイ自体が縮小方向に動いているのに、そこを受け皿として想定していた層を増やすように舵取りしてきていたという、誰がどう考えてもアタマおかしい施策をやってきた結果の必然。一律ひとくくりの公務員叩き、お役所糾弾はいまどき慎むべきとすら思っていますが、さすがにことこの業界、殊に大学以下高等教育に関するお上の方針だけは、後先考えずに批判したくもなるひどさです。

   任期制のポストもどんどん増えていって、30代40代で何とか職にありついている若い衆世代の教員も、その多くはすでに任期制。限られた数年の任期の間に頑張って業績を積み上げて、それを足場にさらに良い職場に、はっきり言って常勤ポストに就けるよう日々切磋琢磨しなければならない、というのが縛りになっている立場。とは言え、じゃあその間研究だけやってりゃいいかというとそんなこともなく、むしろ現実は真逆で、文科省筋からのあれこれ要求に応えにゃならん分、やたら仕事だけが増えてきている昨今の大学のこと、新たに採用したそれら任期制若い衆世代に全部丸投げ、といった事態もほんとに珍しくない惨状。やらねばならない仕事の負荷は山ほどかけられつつ、でも業績も出してゆかないことには先行き真っ暗、というのが昨今、恵まれて任期制ポストに就くことのできたアラフォー前後の若い衆世代課程号持ちの現実です。いわゆる理科系はまた事情が違うでしょうし、分野によっては、修士課程くらい出てないと民間企業の一線でも使い物にならん、と言われる世界のようで、それはそれ、重点化の効果というのもあったのかも知れませんが、こと人文社会系となるとほんとに行先のない「野良博士」が世に満ちている状況になって久しいわけで、深刻な社会問題だという声も当然出てはいるのですが、こと世間の眼からはあまり同情や共感が得られないまま、それこそ「好きでその道進んだんだから、自己責任でしょ」くらいのどんよりした気分で片づけられるのがオチ。

   なまじ博士号なんか持ってしまっている分、良くも悪くもプライドが高くなっている。まあ、無理もない。自分はこれだけ頑張って博士号まで持っているのに、どうしてそれに見合った職が得られないんだろう、大学の中に居座っている年上連中、おっさんであれおばはんであれ、博士も持ってないようなのが、これまでラクにポストにありついて、中にはロクに業績も出さないまんま、のうのうと定年を待っているようなのもいっぱいいるじゃないか、あいつらの代わりに自分が……といった鬱屈や怨念の類が自然にわだかまってくるのも人情というもの。任期制であれ非常勤であれ、大学の現場に関わっている若い衆世代の多くが、そういう種類の満たされない気持ちを抱えたまんま、少子化の状況に加えてさらにまた、昨今は「実学」だの何だのと新たな大号令がかかって混乱錯乱が一層進みつつある大学業界に、果してこのまま自分の人生を託せるものだろうか、という根本的な不安すら、彼ら彼女らの間に膨らみ始めています。



2018/03/11

LINEでゼミはいかが?

 大学という学びの場所には、講義と演習の二本柱があります。

 理科系だとこれに実験や実習なんてのも加わってくるんでしょうが、それらもひとまず広い意味の演習に加えておきましょう。この後者の演習というやつ、俗にゼミとかゼミナールとか呼ばれてきている形式ですが、これが昨今様変わり激しいというか、そもそも成り立たなくなってる事例も案外少なくないんでないような気がしています。

 講義は基本的に「ひとり」で考えることを前提にしていて、それは講義を受けて自習の過程も含めてそうなのですが、ある意味では本を読むことと似ています。それに対して演習というのは、教員もまた学生と同じ目線、同じ立ち位置で、たとえば一冊の本を一緒に読んでゆく、あるいは何か大きなテーマをそれぞれ分担して作業してゆく、言わば「みんな」の中に自分という「ひとり」を置いて、それを軸につくられてゆく「関係」と「場」の中で互いにやりとりしながら学んでゆくものです。講義が「読む」で、文字や活字を想定してのことだとすれば、演習は「話す」で、話しことばで自分以外とつながってゆくことが求められる。個々の進め方、運営の方法はいろいろでしょうが、何にせよ「学生」という同じ立場を仮に設定して、その約束ごとの中で一緒に「わかる」をその場に宿るようにしてゆくこと、それがまあ、ざっくり言って演習の意義みたいなものでした、少なくとも少し前までの大学の作法としては。

 それが昨今、ほんとに煮崩れしてきている。そもそも、その「話す」ことの稽古が、学校どころかふだんの暮らしの中でもされてきていない。だから自分以外と「話す」でつながることが億劫だし、やり方もわからない。こちらが「話す」で関わろうとしても、そこでも講義の中で「当てられた」時と同じような一対一の関係になってしまい、それ以外のその場にいる他の人間に対して開いた「話す」などとてもできない、そんな若い衆学生がほんとにあたりまえに増えました。

 「LINEで、ゼミやったらどうすかね」
 
 ふだんほとんど発言もしない、目立たない学生のひとりが、ある日、ぽつん、と言いました。ああ、そういうことか、スマホなどの端末介した、フリック入力でモニタに映し出される文字で「話す」ことならなじんでいるか、と一瞬思ったのですが、でもそれって本当に「話す」だろうか、いや、そもそもそれで「関係」や「場」ができあがるものなんだろうか、といった問いが即座にいくつも脳内に浮かんできた。けれども、その場でうまく説明できる自信もないのでそれ以上は言えず、その話題もそこから先、その場で深まることもありませんでした。読む/書く、聞く/話す、という広義の「ことば」を介したやりとりのあり方自体もまた、このように少し前までの当たり前と否応なく別のすがたを呈し始めているようです