2014/06/24

奨学金、の本来

 奨学金を借りないと大学へ通えない若い衆が当たり前、という状況になってもうだいぶたちます。

 「奨学金」ですから、本当ならば給付が前提のはずで、それこそよく言われるアメリカなどでは各種の給付前提の奨学金が充実していて、それぞれ自分の身の上や能力に見合った奨学金を手にして大学へ、というのは「学生」という身分のひとつの自明のありようではあるようです。

 けれども、わがニッポンの奨学金というやつは、すでに言われているように多くは貸与。つまりは教育ローンと同じような意味での「借金」なわけで、そのへんの現実をいまどきの学生若い衆がちゃんと認識しない/できないまま、ただ親が言うから、まわりが勧めるから、といった程度の漠然とした理由で、何となく書類をこさえて提出、長期の借金を背負うということになっています。

 親も親で、というと叱られるかも知れませんが、けれども実際に子どもに奨学金を借りさせておいて、それを生活費にまわすというようなことも決して珍しい事例ではない。それだけ景気が悪く、個々の世帯維持にも困窮しているというのは確かでしょうし、そのような中、何とか少しでもましな仕事に就くために金銭的にムリをしても大学へ、というのもわからないではないのですが、だったらなおのこと、子どもの未来を担保にしての長期低金利(確かに低金利ではあります、そこらの銀行その他の金融機関からの借金に比べれば)ローンまがいの扱いで、安易に奨学金に手を出すことを目論む親たちの側の「倫理」みたいなものが、問われるべきだと思ったりします。

 生活保護、の問題も近年よく言われるようになりましたが、ある意味それらと同じような問題をこのニッポンの奨学金は抱えてしまっているらしい。借りられるものは借りときなさい、的なもの言いで、生活保護であれ何であれ、そのような「公」からの「補助」「助成」の類をどのようにうまく立ち回って手にすることができるか、そういうある種の知恵をつけてゆくのが日々の業務になってる面も、ある種のカウンセラーやアドバイザーと呼ばれる仕事にはあったりする。もしかしたら、そのような仕事の場では、すでに「奨学金」というのも生活保護や各種の「公」経由の「補助」「助成」などと同じ水準、同じ位置づけで扱われるようになっているのかも知れません。

 奨学金はおまえたちがおまえたちの名前で借りた「借金」だから、まず大学の学費や大学をちゃんと卒業するために役に立つように使うようにしろ、そしてそれは親や親戚その他に任せるのではなく、おまえたち自身で管理するようにしろ、でないと、一年あたり約100万、卒業時に短大でも200万、四大なら400万以上の借金を背負ってまでわざわざ大学へ来て、実質その借金がおまえたちの大学生活を支える役に立たなくなったりするかも知れんぞ――そんなことを、奨学金関連の説明会などで話をする機会があれば、必ず敢えてむくつけなもの言いで、伝えるようにしています。
 

2014/06/23

「文化祭」がしにくくなった

   どこの大学でも、文化祭がしにくくなったと言われ始めた時期がありました。今から15年ほど前、くらいでしょうか。大学だけじゃない、高校でも同じで、いわゆる進学校や名門校以外じゃ文化祭が成り立たない、といったことも指摘されるように。

 津軽海峡以南、内地の大都市圏のそれなりに名前の通った大学ならばともかく、それ以外の中規模以下のその他おおぜいな大学にとっては、昨今文化祭などはほんとにやりにくくなってる由。それはかつてのように、大学に「自治」という幻想なりおはなしなりが成り立っていて、その上に「自治会」が君臨して仕切っていたような時代に言われていたような「やりにくさ」などからはすでに遠く、そもそも学生若い衆自身がすでに「文化祭」を自分たちのものとして、主体的にやろうという気持ちを持てなくなっているらしい、そういう意味での「やりにくさ」ということのようです。

 自分たちの手で、たとえチャチでもショボくても自前で「祭り」をやってのける、そういう気持ちや心意気自体がもう宿りにくくなってるようです。言い換えれば「内輪」の熱さ。勘違いも含めたそういう「場」の密度を高めるような生身自体、わがニッポンの若い衆世代から失われてきているのかも知れません。


 本学の文化祭もそういう意味じゃ、そういう同時代の危機の中にあるのは同じこと。ただ、そんな危機を自覚して、今年は勧進元の学生団体が少しは何とかしようとジタバタしてみているようです。果たしてどういうジタバタになるのか、良い意味での文化祭の「祭り」っぷりを取り戻すことができるかどうか、キャンパスの工事中ということもあり例年と違った環境で何かと不行き届きなところもあるでしょうが、どうかそのあたりも含め、共に見届けてやっていただければ幸いです。