2018/03/11

LINEでゼミはいかが?

 大学という学びの場所には、講義と演習の二本柱があります。

 理科系だとこれに実験や実習なんてのも加わってくるんでしょうが、それらもひとまず広い意味の演習に加えておきましょう。この後者の演習というやつ、俗にゼミとかゼミナールとか呼ばれてきている形式ですが、これが昨今様変わり激しいというか、そもそも成り立たなくなってる事例も案外少なくないんでないような気がしています。

 講義は基本的に「ひとり」で考えることを前提にしていて、それは講義を受けて自習の過程も含めてそうなのですが、ある意味では本を読むことと似ています。それに対して演習というのは、教員もまた学生と同じ目線、同じ立ち位置で、たとえば一冊の本を一緒に読んでゆく、あるいは何か大きなテーマをそれぞれ分担して作業してゆく、言わば「みんな」の中に自分という「ひとり」を置いて、それを軸につくられてゆく「関係」と「場」の中で互いにやりとりしながら学んでゆくものです。講義が「読む」で、文字や活字を想定してのことだとすれば、演習は「話す」で、話しことばで自分以外とつながってゆくことが求められる。個々の進め方、運営の方法はいろいろでしょうが、何にせよ「学生」という同じ立場を仮に設定して、その約束ごとの中で一緒に「わかる」をその場に宿るようにしてゆくこと、それがまあ、ざっくり言って演習の意義みたいなものでした、少なくとも少し前までの大学の作法としては。

 それが昨今、ほんとに煮崩れしてきている。そもそも、その「話す」ことの稽古が、学校どころかふだんの暮らしの中でもされてきていない。だから自分以外と「話す」でつながることが億劫だし、やり方もわからない。こちらが「話す」で関わろうとしても、そこでも講義の中で「当てられた」時と同じような一対一の関係になってしまい、それ以外のその場にいる他の人間に対して開いた「話す」などとてもできない、そんな若い衆学生がほんとにあたりまえに増えました。

 「LINEで、ゼミやったらどうすかね」
 
 ふだんほとんど発言もしない、目立たない学生のひとりが、ある日、ぽつん、と言いました。ああ、そういうことか、スマホなどの端末介した、フリック入力でモニタに映し出される文字で「話す」ことならなじんでいるか、と一瞬思ったのですが、でもそれって本当に「話す」だろうか、いや、そもそもそれで「関係」や「場」ができあがるものなんだろうか、といった問いが即座にいくつも脳内に浮かんできた。けれども、その場でうまく説明できる自信もないのでそれ以上は言えず、その話題もそこから先、その場で深まることもありませんでした。読む/書く、聞く/話す、という広義の「ことば」を介したやりとりのあり方自体もまた、このように少し前までの当たり前と否応なく別のすがたを呈し始めているようです

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