2019/01/27

いまどき大学教員になる道すじ、とは

 AOや推薦入試の面接担当していると、あらかじめ練習してきたことをどれだけ間違わずにしゃべれるか「だけ」にリソース全振りさせられているのが丸わかりな高校生ばかりでした。でも、それもざっと数年前まで。最近はそれすらしない/できない子が普通になってきた感じがあります。
 高校側も明らかに手抜き、と言って悪ければある種の合理化なんでしょう、「どうせ何やっても通るんだろうし」と「この子にゃ何か振り付けてもうまくやれんし」の併せ技で、ほぼ手当てもしていない天然モノのまま送り出してきている印象。馴致や鞍置きもしていない新馬をいきなり連れてこられたようなもんで、通してから、さてどうしろと。

 経歴的にはほとんどがご当地地元大学を出た教員ばかり、しかも昨今のこと、全体の三分の一が高校の教員上がり、三分の一がいわゆる実務系、といった構成で、しかもフルタイムの常勤でなく特任その他も含めた実質非常勤や非正規などの教員が事実上半分近くとなると、そこまで本腰入れて学生とつきあうような士気の高さは正直、宿りにくくなってます。
 これは受験生の層が低下してゆく過程でのひとつの現実なんだろう、と。高校生一般の学力が低下してきた、という意味ではとりあえずなくこちら側、つまり大学の側の問題として、なりふり構わず受験生を受け入れざるを得なくなってきていた少子化のひとつの帰結として、といった意味においてです。 たかだか地元の内での序列だから、全国区間尺の偏差値基準だと実質的には誤差の範囲のランクの違いではあれ、それでも上位校はここにきて入学者の質確保に少し方針転換し始めてるのか、学校推薦でも落とす場合が増えてるようで、落ちて下流の弊社にスイングしてくる子も眼につく。いずれ一般入試には向かえない子ばかりではあり、推薦やAO入試でしか進学できない、する気もないといった子たちなんでしょう、善し悪し別に。
 救いがあるとしたら、弊社あたりは大学の規模自体が小さいこと。まして近年は定員も減らして、とにかく定員充足率を上げに来てる上に入学者はご多分に漏れず減ってきてますから、最近はゼミなど10人以下当たり前で、ヘタすりゃマンツーマンの家庭教師状態。これだとこちらが本腰入れればそれなりの「関係」こさえやすくはあるのですが、さて問題はここでもそのこちら側に、という現実が。

 また、高校上がりの教員には独特の文化というか気風があって、高校時代の年功序列みたいなものを互いに敏感に察知するらしく、それらがつるむと教室その他の空気からしてすでにいわゆる大学ではなくなってくるような。しかも、その多くが定年後か間近になって大学へやって来た腰掛け勤めの余禄感ありありな年配者だとなおのこと。早めに教育委員会経由で社会教育方面に首突っ込んでたとか、あるいはまともに教頭から校長コースで甲羅を経たとか、そういう経歴の人がたが主流で、人脈というか「閥」というか、そういうコネや “引き” でうまく大学の教員になれる、というコースがある種天下り的に、またある種隠れ技の逃げ道・脇道的に、地元の高校教員の世間における「常識」として共有されているらしく、最初のひとりを足場にして半ば芋づる的に似たようなタイプが連なって入ってくる。
 地元の進学校の教頭や校長までやったような御仁だとやはり権高く、初手からFランの馬鹿大学と見下した態度が見えてわかりやすかったりするのですが、学生にいとも簡単に足もと見られるのもこのテの御仁。それでいて足もと見られてるのに鈍感なまま、というあたりまでも共通項で、そのくせ、現役時代の肩書きをタテに学生募集にやたら口出ししたがるのもお約束。実務家系にしても似たようなもので、新聞社や出版社、大手の金融や商社関係、さらにはマーケティングや就職情報系の会社など、とにかく何かそれなりのキャリアを社会で積んで、それがいまどきの大学経営に役に立つと判断されたらそれは「実務家」になるわけで、めでたく大学教員になったなら、今度は後輩その他に「キミもめざしたらいいよ」と肩を叩いてどんどん勧める始末。かつてなら必ずいたような高校で教員やりながら自分の研究を地道にやってきた、といったタイプは昨今ほんとに跡を絶ったのか、半径身の丈範囲だとまず見かけたことがありません。

 大学の教員になるのは「研究者」ポストに就くことだ、という認識など、実は現実のごく一部でしかないのかも知れません、いまどきのことのみならず、以前までならばきっとなおのこと。本邦の大学、少なくとも私大を中心とした世間はそのような表立って語られない「業界の常識」に支えられてきたのかも知れない、そう思います。そして、それら隠された「業界の常識」も含めて学びながら、「学界」と「大学というシノギの縄張り」を能吏としてマネジメントし制御してゆくのが、国立大を中心とした「講座制」とそれに支えられた「学会」の養成システムの選良たち――生え抜きの大学院&研究室育ちの人がただったらしい。

 雑な言い方ですが、大筋はそう間違っていないと思います、少なくとも人文社会系の世間については。そして、このような「業界」のなりたちを結果的に根底から揺るがしてゆくことになったのが、結果的にあの90年代の大綱化と教養課程再編だったという面は、政策的な善し悪しの評価などとは別に、現実の過程として確かにあったんだろう、と思います。







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