2019/10/08

「即戦力」の「人材」とは?


 就職活動を「就活」とすんなり呼ぶようになって、もうそれなりになります。就職予備校的な「実利」に向けて文科省以下の政策的指導はもとより、世間一般の風潮としても大学に対してそのような「役に立つ」役回りを明確に求め始めている。それは理屈や能書きでなく、日々の仕事の局面でさえも肌身で感じることです。

 就活解禁でも「レベルの高い学生が全然いない」 ある大手企業人事部のため息 - 福島 直樹 #BLOGOS https://blogos.com/outline/362933/

 この「レベルの高い学生」というのが具体的にどういうものか、おそらく面と向かって問い質したところで大した答えは返ってこないでしょう。少なくとも成績が良く、勉強もよくしてきたような、大学に限らずそれまでの「学校」のものさしでの「レベル」ではないらしいことは明らかです。あらかじめ社会人(このもの言いも謎と言えば謎です)としての立ち居振る舞い、口の利き方その他をある程度備えているような、要は手間ひまかけて育てることをしなくてもいい、そういういわゆる「即戦力」としての新卒学生。そんな奇妙な物件をこの国の企業社会がおおっぴらに欲しがるようになってから、思えばもうずいぶんたちます。

 いや、そんなことはない、こちらが手間ひまかけて育てるだけの価値のある「人材」(このもの言いにも歴史がすでにあるように思いますが)がいなくなっているのだ、といった反論も出てくるかも知れません。少し前までなら、そうやって社会人になっていった若者がそれなりにいたし、またそういう道筋を経ながらみんな企業社会の中の人、つまり「おとな」になっていったのだ――いずれそのような型通りの、とりあえずそれ自体は正しく聞こえるような説明も伴いながら。

 育てるには手間ひまがかかる、言い換えればカネもコストも時間もかかるということを企業社会の側が担保できなくなってきていて、だから「即戦力」という要求もあたりまえに出てくるのでしょうが、その一方でまた、採用した若い衆がすぐに辞めてしまうということも起ってきています。だから会社の側も、せっかく手間ひまかけようとしてもそれがムダになってしまう、とグチることにもなる。いずれにせよ悪循環です。

 いきおい、大学の側にことのしわ寄せはやってくる。「即戦力」の「人材」、つまりすぐに辞めてしまっても会社の損にならない既製品に近い学生を育ててくれ――そういう要求を臆面なく平然と押しつけてくるようになる。それは正規雇用の社員を継続的に抱えるよりも、派遣や非正規雇用の「即戦力」をとっかえひっかえ使い捨てて利益を追求してゆくことが「合理的」な経営であるということになっていった、あの「構造改革」以来の「グローバル化」の過程とも期を一にしていました。

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