2020/04/14

新入生へ

 確かに大学へ入ったはずなのに、高校あるいはそれまでの日々と何も区切りのつかない毎日をすごしていると思います。

 人間、生きていればいろんなことに遭遇するものですが、あなたたちがいま、10代やそこらで遭遇しているのは、敢えて大げさに言えば「文明史的な過渡期ないしは転換点」の日々なのかも知れません。それくらい時代の、社会の、そして世界の動きは激しいものになってきていますし、これから先しばらくは、このような「これまでの知識や経験ではうまく理解も判断もしにくい状況」が続いてゆくはずです。誰であれ、そういう時代、そういう状況を生きてゆかねばならないめぐりあわせになっていますし、殊にまだ若い、これから自分の人生を生きるあなたたちはなおのこと。だからこそ、広い意味での勉強、自分自身が生きてゆく上で本当の意味で「役に立つ」学び方を意識的にしてゆくことが、これまで以上に切実に必要になってきていると思います。

  いい機会です。まず、いったい自分は何のために大学へ入ったのか。それもいま、進学率が50%を超えて、つまりふたりにひとりは大学へ入ってしまうこの時代になぜ?――そのことをまずもう一度、自分自身に問いかけてみてください。

 何かやりたいことがあったから? 少しはいい就職をするため? 親や先生に言われて何となく? どうしてわざわざ大学へ、それも短大や専門学校などでなく4年制の、それも人文学部なんて学部へ?  4年間で何をしたいと思っている?  4年後にどんな自分になっていたい?

 自分がこの先、生きてゆく上で「役に立つ」勉強というのはどういうものか。何か資格や免許をとるための、そういう目的が具体的に見えている勉強ではなく、自分自身が世の中を見通してゆくために、その世の中と自分との関係を含めて「わかって」ゆくことで自分の人生を自分の手で組み立ててゆくために、大学での勉強はありましたし、こんなに移り変わりの激しい世の中になっても、いやだからこそ、本当に「役に立つ」勉強の意味は重くなってきています。

 あなたたちがまず受けることになる「現代文化論」というのはそういうことから、自分と世の中、それを「わかる」ための勉強とは何か、ということから少しずつ、半径身の丈のところから考えてゆこうとする最初の講義科目になるはずです。

2019/10/08

「即戦力」の「人材」とは?


 就職活動を「就活」とすんなり呼ぶようになって、もうそれなりになります。就職予備校的な「実利」に向けて文科省以下の政策的指導はもとより、世間一般の風潮としても大学に対してそのような「役に立つ」役回りを明確に求め始めている。それは理屈や能書きでなく、日々の仕事の局面でさえも肌身で感じることです。

 就活解禁でも「レベルの高い学生が全然いない」 ある大手企業人事部のため息 - 福島 直樹 #BLOGOS https://blogos.com/outline/362933/

 この「レベルの高い学生」というのが具体的にどういうものか、おそらく面と向かって問い質したところで大した答えは返ってこないでしょう。少なくとも成績が良く、勉強もよくしてきたような、大学に限らずそれまでの「学校」のものさしでの「レベル」ではないらしいことは明らかです。あらかじめ社会人(このもの言いも謎と言えば謎です)としての立ち居振る舞い、口の利き方その他をある程度備えているような、要は手間ひまかけて育てることをしなくてもいい、そういういわゆる「即戦力」としての新卒学生。そんな奇妙な物件をこの国の企業社会がおおっぴらに欲しがるようになってから、思えばもうずいぶんたちます。

 いや、そんなことはない、こちらが手間ひまかけて育てるだけの価値のある「人材」(このもの言いにも歴史がすでにあるように思いますが)がいなくなっているのだ、といった反論も出てくるかも知れません。少し前までなら、そうやって社会人になっていった若者がそれなりにいたし、またそういう道筋を経ながらみんな企業社会の中の人、つまり「おとな」になっていったのだ――いずれそのような型通りの、とりあえずそれ自体は正しく聞こえるような説明も伴いながら。

 育てるには手間ひまがかかる、言い換えればカネもコストも時間もかかるということを企業社会の側が担保できなくなってきていて、だから「即戦力」という要求もあたりまえに出てくるのでしょうが、その一方でまた、採用した若い衆がすぐに辞めてしまうということも起ってきています。だから会社の側も、せっかく手間ひまかけようとしてもそれがムダになってしまう、とグチることにもなる。いずれにせよ悪循環です。

 いきおい、大学の側にことのしわ寄せはやってくる。「即戦力」の「人材」、つまりすぐに辞めてしまっても会社の損にならない既製品に近い学生を育ててくれ――そういう要求を臆面なく平然と押しつけてくるようになる。それは正規雇用の社員を継続的に抱えるよりも、派遣や非正規雇用の「即戦力」をとっかえひっかえ使い捨てて利益を追求してゆくことが「合理的」な経営であるということになっていった、あの「構造改革」以来の「グローバル化」の過程とも期を一にしていました。

2019/09/15

そっちで決めてくれ、というココロ

 オープンキャンパスだの大学見学会だの進学説明会だの、やたら高校生を「進学」「大学」「キャリア」に向けて煽る機会が日常化したせいか、むしろそれらに一切背を向けて身近な教員などの勧め一発で行先決めてくる若い衆学生、なにげに増えてきている印象があります。半径弊社範囲の観測ではありますが。

 そこら中で飛んだり跳ねたり、あの手この手でこれでもかと「明るい」陽キャな「大学」アピールをしまくっている昨今、そういうのに気後れしたり尻込みしたりする汎用量産型高校生若い衆のおキモチ、ってのもあるようです。「前向き」「意欲的」であること、にすでに何か定型みたいなものができていて、それが抑圧になっているような気配もあります、こちらの想像以上に。あらゆる選択肢がほら、キミのアナタの目の前に!的な煽りに食傷しているというか、どれが「正解」かわからんしとっとと決めてくれ、それでいいから、的な、今様消費者マインドというか。

 高校生だけでなく、現役学生の受講科目の選択なんかにもそういう雰囲気は見え始めていて、おすすめの科目セットみたいなのないですか、的にキュレーション (ああ、イヤなもの言いです) を求めてくる例がなにげにあったりする。選択科目の幅が広いとかえって決められないらしく、あと、「出口」(この科目を取ったらこうなる) というのが具体的に示されていないと反応できない、というのもどうやら。いきおい、実際はどんなに役立たずな「資格」「免許」の類でも、それが「出口」として設定されていたら安心してホイホイ食いついてくるところも。「実利」「実用」の判断の射程距離が目先でしかなくなってる感。その場しのぎの常態化というか、文脈見なくなっていることのある現われでもあるかもしれません。

 ただ、そのようにあらかじめ「セット」として提示されていることに順応している分、そのセットの〈それ以外〉という部分には想像力が及ばなくなっているらしく。〈それ以外〉がある、ということは「知ってる」ではあっても、単に情報として知っているだけで本質的に「関係ない」という「処理」でおわるらしく。

2019/02/23

首都圏&大都市圏私大の難化?

 今年も大学受験の季節になって、ちらほら情報が入ってきています。

 特に今年は、どうやら首都圏の私大の難易度がこのところの流れと大きく変わってきているらしい。いわゆるMARCHと呼ばれる早慶に次ぐ有力私大の難易度が激しくあがって不合格者が続出、それに伴い中堅校以下の動向にもかなり変動があるようで、受験生の間に大きな動揺が広がっている由。国公立入試はこれからですから、滑り止めの私大をあてにしていた戦略が総崩れになっている向きも少なくないらしい。何にせよ、例年と異なる激震になる気配が感じられます。

 文科省がまた悪さした悪影響、というのが第一印象。首都圏や京阪神の大都市圏の有力私大に学生が集中することを避けるという名目で、学生定員を大幅に超えた入学者を入れることを抑制するよう誘導、これが主な原因となって今回このような事態になっているものと思われます。

 結果、本来ならば上位校に合格できたような層が下流に流れざるを得なくなるわけで、そういう意味では優秀な学生「資源」(このもの言いは不謹慎ですが)の「分配」が変わってきて、それに伴い「不本意入学」が増えてその手当てに大学側が追われることになるだろうということなどが予測されます。

 本学のような地方の私大、それも規模の小さな零細企業だとどうなるか。同じ地方でもご当地北海道はまた特殊な条件なので一概には言えませんが、札幌圏の限られた範囲でも上位校と目されている大学がある程度右へ倣えで入学者数を絞ってきている気配は、一般入試が始まる前の高校推薦やAO入試の段階ですでに何となく感じられます。おそらく例年と違うある程度優秀な高校生が混じってくることになるのではないか。個人的には望むところですし、何よりそのような学生の比率をある程度高めてゆくことで大学全体のクオリティも高めてゆく一環になる、というのは中期戦略の基本だとかねがね主張してきているところ、とりあえず来月にかけての最終的な募集状況に注目したいところです。

2019/01/31

ある学生若い衆のこと

 母が客家系中国人という学生若い衆、日本人の父が仕事で深圳に赴任していた時に知り合い結婚、深圳近郊の町で現地生まれも10年前に母と来日、母子共に帰化して求職中。母は客家広東北京の言語可で当人も一応それなりに。ただ本邦海峡以南の文化風土は抑圧らしくご当地での就職or起業に色気あるらし。

 深圳近郊の町とは言え母の実家は貧しいので深圳に出稼ぎ的に働きに出ていた時に父と知り合った由。深圳は北京語が公用語的になっているのと、とにかくビジネス一辺倒なのでギスギスしててしんどい、と。客家語は多様過ぎて個人ごとに発音その他違うので聞き取るのも大変だけれども、客家の進取の気性は好きな由。

 この季節、ご当地観光地は外国人団体&修学旅行客ばかりだが、中国人観光客の挙動などをいろいろ興味深く観察して新たなビジネスチャンスをうかがっていた。とは言え、中国人観光客の立ち居振る舞いには違和感&拒否感が強いらしく、一緒にしないでくれ、的な困惑を見せていたが。

2019/01/27

いまどき大学教員になる道すじ、とは

 AOや推薦入試の面接担当していると、あらかじめ練習してきたことをどれだけ間違わずにしゃべれるか「だけ」にリソース全振りさせられているのが丸わかりな高校生ばかりでした。でも、それもざっと数年前まで。最近はそれすらしない/できない子が普通になってきた感じがあります。
 高校側も明らかに手抜き、と言って悪ければある種の合理化なんでしょう、「どうせ何やっても通るんだろうし」と「この子にゃ何か振り付けてもうまくやれんし」の併せ技で、ほぼ手当てもしていない天然モノのまま送り出してきている印象。馴致や鞍置きもしていない新馬をいきなり連れてこられたようなもんで、通してから、さてどうしろと。

 経歴的にはほとんどがご当地地元大学を出た教員ばかり、しかも昨今のこと、全体の三分の一が高校の教員上がり、三分の一がいわゆる実務系、といった構成で、しかもフルタイムの常勤でなく特任その他も含めた実質非常勤や非正規などの教員が事実上半分近くとなると、そこまで本腰入れて学生とつきあうような士気の高さは正直、宿りにくくなってます。
 これは受験生の層が低下してゆく過程でのひとつの現実なんだろう、と。高校生一般の学力が低下してきた、という意味ではとりあえずなくこちら側、つまり大学の側の問題として、なりふり構わず受験生を受け入れざるを得なくなってきていた少子化のひとつの帰結として、といった意味においてです。 たかだか地元の内での序列だから、全国区間尺の偏差値基準だと実質的には誤差の範囲のランクの違いではあれ、それでも上位校はここにきて入学者の質確保に少し方針転換し始めてるのか、学校推薦でも落とす場合が増えてるようで、落ちて下流の弊社にスイングしてくる子も眼につく。いずれ一般入試には向かえない子ばかりではあり、推薦やAO入試でしか進学できない、する気もないといった子たちなんでしょう、善し悪し別に。
 救いがあるとしたら、弊社あたりは大学の規模自体が小さいこと。まして近年は定員も減らして、とにかく定員充足率を上げに来てる上に入学者はご多分に漏れず減ってきてますから、最近はゼミなど10人以下当たり前で、ヘタすりゃマンツーマンの家庭教師状態。これだとこちらが本腰入れればそれなりの「関係」こさえやすくはあるのですが、さて問題はここでもそのこちら側に、という現実が。

 また、高校上がりの教員には独特の文化というか気風があって、高校時代の年功序列みたいなものを互いに敏感に察知するらしく、それらがつるむと教室その他の空気からしてすでにいわゆる大学ではなくなってくるような。しかも、その多くが定年後か間近になって大学へやって来た腰掛け勤めの余禄感ありありな年配者だとなおのこと。早めに教育委員会経由で社会教育方面に首突っ込んでたとか、あるいはまともに教頭から校長コースで甲羅を経たとか、そういう経歴の人がたが主流で、人脈というか「閥」というか、そういうコネや “引き” でうまく大学の教員になれる、というコースがある種天下り的に、またある種隠れ技の逃げ道・脇道的に、地元の高校教員の世間における「常識」として共有されているらしく、最初のひとりを足場にして半ば芋づる的に似たようなタイプが連なって入ってくる。
 地元の進学校の教頭や校長までやったような御仁だとやはり権高く、初手からFランの馬鹿大学と見下した態度が見えてわかりやすかったりするのですが、学生にいとも簡単に足もと見られるのもこのテの御仁。それでいて足もと見られてるのに鈍感なまま、というあたりまでも共通項で、そのくせ、現役時代の肩書きをタテに学生募集にやたら口出ししたがるのもお約束。実務家系にしても似たようなもので、新聞社や出版社、大手の金融や商社関係、さらにはマーケティングや就職情報系の会社など、とにかく何かそれなりのキャリアを社会で積んで、それがいまどきの大学経営に役に立つと判断されたらそれは「実務家」になるわけで、めでたく大学教員になったなら、今度は後輩その他に「キミもめざしたらいいよ」と肩を叩いてどんどん勧める始末。かつてなら必ずいたような高校で教員やりながら自分の研究を地道にやってきた、といったタイプは昨今ほんとに跡を絶ったのか、半径身の丈範囲だとまず見かけたことがありません。

 大学の教員になるのは「研究者」ポストに就くことだ、という認識など、実は現実のごく一部でしかないのかも知れません、いまどきのことのみならず、以前までならばきっとなおのこと。本邦の大学、少なくとも私大を中心とした世間はそのような表立って語られない「業界の常識」に支えられてきたのかも知れない、そう思います。そして、それら隠された「業界の常識」も含めて学びながら、「学界」と「大学というシノギの縄張り」を能吏としてマネジメントし制御してゆくのが、国立大を中心とした「講座制」とそれに支えられた「学会」の養成システムの選良たち――生え抜きの大学院&研究室育ちの人がただったらしい。

 雑な言い方ですが、大筋はそう間違っていないと思います、少なくとも人文社会系の世間については。そして、このような「業界」のなりたちを結果的に根底から揺るがしてゆくことになったのが、結果的にあの90年代の大綱化と教養課程再編だったという面は、政策的な善し悪しの評価などとは別に、現実の過程として確かにあったんだろう、と思います。







2019/01/11

外国人留学生問題、のいまどき

 少し前、週刊誌などで半ばスクープ的に報じられていたご当地某私大の「売却」をめぐる騒動の件、その後週刊誌や全国紙にも後追い的に報道されるようになっていました。

  地元紙の報道では、あれこれ事情もあるのでしょう、「儒教系」日本語学校に売却、といった表現になっていましたが、要するに中国の影が背後に垣間見える学校法人に大学を売り飛ばす約束をしたということは確かなわけで、少子化がいよいよ本格的に学校経営、殊に私立大学や専門学校の経営基盤に大きな影響を具体的に見せ始める時期に突入し始めている昨今、いろんな意味で各方面に波紋を呼ぶできごとにはなっています。

 今から20年以上、もう四半世紀ほども前になりますか、90年代半ばから後半くらいの時期に「私大バブル」とでも言うような私立大学の拡張や、新たな学部学科増設が相次いだことがあります。既存の大学が新たな学部や学科を増やすだけでなく、短大などもこぞって四年制大学に衣替えして学生若い衆を呼び込むことに躍起になっていました。実際、当時はそれでしこたま儲けた学校経営者はたくさんいたわけで、近年言われる「大学の経営危機」というのも、一般に報じられている文科省界隈からの大文字の問題や課題などとは少し別のところで、ぶっちゃけその時期に後先考えず拡張・拡大に奔走した私大業界の半ば強制的な手立ても含めた整理縮小過程、つまりは私大バブルの後始末というところが間違いなくあります。

 言うまでもなく、少子化の問題というのは何も最近になっていきなり始まったことでもない、もうずいぶん前からそうなることは数字として見えていたことで、もちろんその私大バブルの時期にはすでに常識として共有されていたはずです。まして、各世代年齢層の増減がそのまま市場規模として予測できる学校経営の場合はなおのこと、このまま推移すれば何年後にはこれくらいの市場規模になる、それを見越して中長期的な経営戦略を立てねばならない、どこも最低限それくらいの認識は持っていたと思うのですが、いずこも同じお役所による規制に守られた業界の水に長年なじんできた悲しさ、みんながバブルに踊って儲けてるんだからうちも乗り遅れないように頑張って踊らないと、的な横並びの考えなしが横行した。中には日本人だけでは飽き足らず外国人留学生もどんどん受け入れる大学が、特に地方の中小規模のところに増えてゆき、まだ当時はわが日本も経済状況が良かった頃のこと、学生として受け入れたはずの彼ら彼女らが出稼ぎ感覚の労働者と化し、中には行方不明になって不法滞在者に変貌するといった事態も起こっていたのは、当時いろいろ報道もされていたゆえ、世間でもまだ記憶に新しいと思います。

 けれども、いまどきの外国人留学生というのはその頃とはまた様変わりしている。何よりこの日本の状況が大きく変わっているわけで、そこをめがけてやってくる留学生の目的もモティベーションも、今世紀始め頃までのそれとは違ってきています。件の苫小牧駒澤大学が目論でいる留学生というのも、比較的富裕層の優秀な子弟限定で、日本のレベルの高い大学に正規編入を希望するような子たちを全寮制で日本語教育中心に鍛え上げて、それぞれ望む進路に誘導しようといったものらしい。実際、そういう需要は中国にだけ関しても潜在的に大きくなっているようで、単にカネ目当て、日本で働くことが目的の以前の留学生とはそのへん、前提が異なってきています。

 その一方で、少子化が雪崩を打って本格化する時期にさしかかり経営基盤の崩壊が始まっている大学業界としては、留学生に頼らざるを得ない状況はある意味以前よりも強まっている。その留学生自体、この先しばらくの間はいいとしても、20年から30年というスパンで考えると今後は減ってゆくという予測も出ているわけで、いずれにせよなりふり構わぬ生き残り戦略の中で、外国人留学生をどのように取り込んでゆけるのかが、進行しつつあるこの「私大バブル」の後始末の過程で重要なポイントのひとつになっています。ただ、肝心要の文科省がなにせあのていたらく。かつての考えなしの横並びと同じように、またも考えなしに留学生招致の受け皿をあれこれ画策してゆく事態が各地で起こり始めるような気配も正直、拭えない。今回のこの騒動はそういう意味でも、全国の先駆けになるかも知れません。