2018/06/01

教室の、ながらスマホいろいろ

 講義中、スマホをのぞき込む若い衆、特にもう珍しくもなくなってます。

 机の下に隠しながら下を向いてるのはまだましで、堂々と机の上に置いて眺めたり、ヘタすりゃゲームに興じる剛の者も。いわゆる講義の形式でこちらが話している時は、多少の遠慮もあるようですが、中でスクリーンに映像を投影して見せたりするような段になるとその歯止めも外れるらしく、そこここでおおっぴらにスマホ鑑賞に勤しむように。これが昨今当たり前になってるパワーポイントの類の電子紙芝居を半ば常時上演するような形式になると、その鑑賞モードも同じく常態になる由。このへんこちとらがパワポを使わないので実体験でなく伝聞になりますが、どういう事態を招来するようになるのかはなるほど、たやすく推測できます。

 前にも触れた、講義中にノートパソコンを広げてノートテイキングとしてタイピングしたり、何かを検索したりということとどう違うのか、という声もあります。何か関係ない動画を見たり、電子マンガを眺めたり、果てはゲームをしたりというのは論外としても、しかし電子機器としては同じこと、フリック入力でノートをとるのはちと無理筋としても、検索などはスマホでちょっとやってみるのは確かにあり得るし、実際そういう若い衆もちらほらいる。

 このへん、基本的な考え方としては、ひとまず私語の延長線上でとらえるようにしています。講義中の私語についても一律とにかくいけないというわけではない、講義に関係のあることで隣の友だちと意見交換をしたり、何かやりとりをするようなことは、まわりに迷惑をかけない限りにおいて妨げない、それと同じようにスマホをいじるのもその場の講義と関わるようなしらべものなどするのなら許容する――ざっとそのようなことを、こちらの考える基本線として若い衆には提示することにしています。

 眼前の彼ら彼女らがそれで本当に納得しているかどうかは微妙ですが、その日その時その場所に身を置いている講義なら講義という「場」において必要と判断した上での行為なのかどうか、私語であれスマホであれ、そこはまさに「自主的」で「主体的」な判断でやってくれということなんだな、という程度の理解は、それなりにしてくれているようではあります。

 机間巡視だとか何とか、そういう「教育学」系のリクツ自体習ったこともない身ですが、映像を上映している時などはスマホをのぞき込むのを確認すると、なにげなく近寄っていっては横に立ってみたり、時にはこちらからものぞき込むようにすることもありますが、そういう場合、あ、と気づいてバツの悪そうな顔つきをしてそそくさとスマホをしまうような態度になる若い衆は、どうも最近少ないような印象があります。こちらの存在に気づいても表情ひとつ変えずにそのまま黙って画面を消したり、あるいは単に脇に少しずらすだけで「スマホなんて見てませんよ」的ふりをしてみせる。さらには机の上に溶けたようになって眺めていたりする場合は、単にそのまま寝たふりをするようなことも。

 あ、バレた、やらかした、的な取り繕い方すらしない、あるいはする必要も感じなくなっているくらいに、その「場」に自分の身を置いているということの意識が希薄になっているのかな、と、例によってのシロウト目線ではありますが、遭遇する眼前のそのような若い衆の生態を前に、いろいろ考え込んだりしています。
 
 

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